第八話 揺れる火
次の日の朝、目が覚めたとき、私は昨日より少しだけ早くここがどこなのか思い出した。
祖父母の家ではない天井。
障子の向こうに見える、青白い霊力の筋が流れる庭。
畳の上に揃えられた新しい着替えと、昨日買った櫛や布。
妖魔界。
雲仙様の屋敷。
私の中にある、古い霊の残り火。
そこまで思い出したところで、胸の奥が少し重くなる。
けれど、前みたいにその重さに押しつぶされる感じはなかった。怖いことに変わりはないけれど、怖さの形が少しだけ見えてきたからかもしれない。
身支度をして部屋を出ると、回廊の向こうから紬が歩いてきた。
「おはよう、燈ちゃん」
「おはよう」
紬はいつものやわらかい顔で近づいてきたけれど、今日は少しだけいつもと違った。
何か言いたそうにしている。
「どうしたの?」
私が聞くと、紬は「ああ、うん」と頷いてから、小さく声を落とした。
「雲仙様がお呼びだよ」
それだけで、背筋がすっと伸びた。
「……私を?」
「うん。白嶺も一緒」
昨日の話の続きなのだろうか。
それともまた別の、大事な話だろうか。
私の顔を見た紬が、少しだけ気遣うように言う。
「そんなに怖い顔しなくても大丈夫だよ。たぶん、怒られるとかじゃないから」
「してた?」
「ちょっとだけ」
私は思わず、自分の頬に触れた。
紬はくすっと笑う。
「案内するね」
回廊を歩くあいだ、私の足は少しだけ重かった。
雲仙様の部屋へ行く道は、何度か通ったはずなのに、まだ少し緊張する。屋敷の奥へ進むほど、空気が澄んで、音が少なくなる気がするからだ。都の賑わいは遠くにあるはずなのに、ここではそれが別の世界の話みたいに薄れる。
やがて例の襖の前まで来ると、白嶺がすでにそこに立っていた。
「来たか」
いつも通りの静かな声だった。
でも、今日はどこか少しだけ張りつめて見える。
「おはよう」
そう言うと、白嶺は一度だけ頷いた。
「入るぞ」
紬はそこで足を止めた。
「僕はここまで。終わったらまた呼んで」
「うん」
襖の向こうの部屋は、前と同じように静かだった。
雲仙様は奥の席に座っていて、こちらを見た。
相変わらず、派手に動くわけでもないのに、その人がいるだけで部屋の中心が決まるような感じがある。
「参りました」
ぎこちなく頭を下げると、雲仙様は穏やかに頷いた。
「うむ。よう来たの、燈」
私と白嶺が座ると、しばらく静かな間があった。
その沈黙を破ったのは、雲仙様だった。
「燈よ。一昨日、そなたの内に宿る霊については話した」
「はい」
「されど、知るだけでは足りぬ」
私は小さく息をのむ。
「そなたの中の火は、今なお揺れておる。揺れが大きければ、大きいほど、外にも漏れよう。下生の妖が寄るのも、そなた自身が苦しくなるのも、そのせいだ」
昨日の黒い影が頭をよぎる。
同時に、怖くなったとき胸の奥が熱くなった感覚も思い出した。
「ゆえに今日は、まずその揺れを少しだけ知ることから始めよう」
「……知る?」
「制するには、まず見ねばならぬ」
雲仙様はそう言って、白嶺の方へ視線を移した。
「白嶺」
「はい」
「見届けよ。必要なら手を貸せ」
「承知しました」
私は思わず白嶺を見た。
白嶺はいつも通り落ち着いていたけれど、その目は普段より少しだけ鋭かった。
「立てるか」
「え」
「ここでは狭い。奥の庭へ出る」
言われて、私は慌てて立ち上がる。
案内されたのは、屋敷のさらに奥にある小さな庭だった。
といっても、普通の家の庭よりはずっと広い。白い石が敷かれ、中央には浅い池があり、その水面に青白い霊力の光が揺れている。周囲は高い塀と木々に囲まれ、外からは完全に隔てられていた。
「ここなら多少乱れても問題は少ない」
白嶺が言う。
その“多少乱れても”がちょっと怖い。
雲仙様は縁側に座ったまま、私を庭の中央へ促した。
「楽に立て。そう力まぬ方がよい」
私はぎこちなく頷いて、言われた場所に立った。
庭は静かだった。
風が水面を揺らし、木の葉がかすかに鳴る音しかしない。その静けさの中で、自分の呼吸だけが妙に大きく感じられる。
「燈」
白嶺が一歩前へ出る。
「まず、自分の中を探るつもりで目を閉じろ」
「中を……探る?」
「胸の奥でも、腹の底でもいい。何かがあると意識しすぎるな。ただ、呼吸と一緒に内側へ意識を向けろ」
言われた通り、私は目を閉じた。
最初は何もわからなかった。
聞こえるのは風の音と、自分の心臓の音。呼吸を意識しようとするほど、逆に息が変になる。
「力むな」
白嶺の声がした。
「はい……」
「返事もいらない。余計なことに意識を割くな」
ちょっとひどい。
でも、たしかにその通りだったので何も言えない。
私はもう一度、息をゆっくり吸った。吐いた。
お母さんの声も、お父さんの顔も、祖父母の家も、いったん頭の隅へ追いやる。今はただ、自分の中だけを見る。
最初は暗かった。
でも、何度か呼吸をくり返しているうちに、本当にほんの少しだけ、胸の奥に小さなあたたかさがあるような気がした。
「……あ」
思わず声が漏れる。
「何を見た」
白嶺がすぐに問う。
「なんか……あったかい」
「形は」
「わかんない」
「色は」
「わかんない」
雲仙様がくすりと笑う気配がした。
「白嶺、そう急くでない。初手でそこまでわかるものでもあるまい」
「……失礼しました」
私はそっと目を開けた。
白嶺は少しだけ眉を寄せていた。
でも怒っているわけではなくて、うまく説明できない私に焦れている感じだった。
「もう一度だ」
白嶺が言う。
「今度は、そのあたたかさが揺れたときだけ意識しろ」
「揺れる……?」
「怖い時、驚いた時、動いた時。おそらく君の霊はそういうときに大きく揺れる」
私は小さく頷いた。
もう一度目を閉じる。
胸の奥のあたたかさを探す。さっきより少しだけ早く見つけられた気がした。
その瞬間。
「燈」
不意に白嶺の声が、すぐ近くで落ちた。
私はびくっとして肩を跳ねさせた。
同時に、胸の奥のあたたかさが、ぱち、と火花みたいに弾けた気がした。
「っ」
目を開けると、庭の空気が小さく震えていた。
水面が揺れ、敷石の上に散っていた葉がふっと持ち上がる。
私は息を呑んだ。
「今のだ」
白嶺が言う。
「見えたか」
「……ちょっとだけ」
自分でも驚くほど声が小さくなる。
「急に呼ばれたとき、熱くなった」
「それが揺れだ」
白嶺は一歩近づいた。
「君の霊は、刺激に対してまだ剥き出しに反応しすぎる」
「剥き出し……」
「だから漏れる。だから寄ってくる。だから、自分でも制御できない」
言われていることは厳しいのに、間違っていない気がした。
怖いと思ったら、熱くなる。驚いたら、揺れる。私は自分の中のそれを、まだ全然知らない。
「次は抑える」
白嶺の言葉に、私は目を丸くする。
「そんなすぐに?」
「すぐにできるとは言っていない。だが、知らないままにしておくわけにもいかない」
やっぱり厳しい。
私はちらっと雲仙様の方を見た。
雲仙様は、止めるでもなく、静かにこちらを見ていた。
「燈よ」
穏やかな声がする。
「火を消そうとするでない。包むのだ」
「包む……?」
「うむ。怖れも、驚きも、なくすことはできぬ。されど、揺れた火をそのまま外へ散らさぬよう、内に留めるのよ」
その言葉は、少しだけわかった気がした。
消すんじゃない。
なくすんじゃない。
ただ、こぼさないようにする。
「……やってみます」
そう言って、私はまた目を閉じた。
胸の奥のあたたかさ。
小さな灯。
それを今度は、何か薄い布で覆うみたいなつもりで意識してみる。
うまくいく気はしなかった。
でも、やるしかなかった。
「燈」
白嶺の声がまた落ちる。
私は反射的にびくっとしかけて、でも必死に息を止めずにいた。
あたたかさが揺れる。
でも、さっきみたいにぱち、と外へ散らばるところまではいかなかった。胸の奥で火が揺れて、少しだけ熱が広がる。それをなんとか抱えこむみたいに意識する。
「……っ」
苦しい。
うまく言えないけれど、くしゃみを我慢している時みたいな、変な苦しさだった。
「そこでいい」
白嶺の声がする。
「止めろ」
私は目を開けた。
水面は少し揺れていたけれど、さっきほどではなかった。
敷石の上の葉も持ち上がっていない。
「今の……」
「前よりはましだ」
白嶺が言う。
前よりはまし。
それはたぶん、白嶺なりの褒め言葉なんだろう。
雲仙様も小さく頷いた。
「よい。最初の一歩としては上々よ」
その言葉に、胸の奥がほっとする。
でも、その安心が長く続く前に、白嶺は続けた。
「ただし、今のでは実戦では役に立たない」
やっぱり厳しい。
私は思わず口を尖らせそうになった。
それを見たのか、雲仙様が今度ははっきり笑う。
「白嶺よ。褒めることも覚えよ」
「褒めています」
「それはそなたの中だけの話であろう」
白嶺が黙る。
そのやり取りが少しだけおかしくて、私はつい笑ってしまった。
結果として、その日の制御は大成功とはとても言えなかった。
何度か試してみたけれど、うまく揺れを抑えられる時と、余計に乱してしまう時があった。集中しすぎると逆に疲れてしまうし、怖がるとすぐ揺れる。白嶺に「考えすぎだ」と言われ、雲仙様には「焦るでない」と言われた。
それでも、最後に庭を出るころには、私は少しだけ手応えを感じていた。
自分の中にあるものが、ただの得体の知れないものではなくて、ちゃんと揺れる火なのだとわかったこと。
そして、その火は少しだけなら自分で抱えこめるのだと知ったこと。
それだけでも、昨日までよりは前に進んだ気がした。
部屋へ戻る途中、椿と鉢合わせた。
「おや」
私の顔を見るなり、椿はにやりとする。
「ずいぶん疲れた顔してるじゃないか」
「疲れた」
「何やったんだい」
「霊力の制御」
私が答えると、椿は「へえ」と目を細めた。
「どうだった」
「難しかった」
「だろうね」
まったく慰めにならない言い方だったけれど、そのあっさりした調子がかえって少し楽だった。
「でも」
私は少しだけ息をつく。
「ちょっとだけ、わかったかも」
椿はそこで笑った。
「そりゃ上等だ」
その“上等”が、なんだか嬉しかった。
その日の夕方、紬が部屋へ来た時には、私はもう畳の上に転がりたいくらい疲れていた。
「……だいぶへとへとだね」
紬が苦笑する。
「白嶺の指導、厳しかった?」
「厳しかった」
「そうだろうなあ」
紬は、どこか納得したように頷いた。
そして少しだけ声をひそめる。
「でも、燈ちゃん、今日ちょっと違うよ」
「違う?」
「うん。昨日より、霊の揺れが少し落ち着いてる」
私は思わず自分の胸に手を当てた。
自分ではまだよくわからない。
でも紬がそう言うなら、少しは変わっているのかもしれない。
そのとき、また別の足音が近づいてきた。
勢いのいい、隠す気のない足音。
障子が勢いよく開いて、椿が顔を出す。
「燈!」
「な、なに」
「今日は宴だよ」
「……宴?」
私がぽかんとすると、椿は当たり前みたいに頷いた。
「歓迎会さ」
その言葉に、今度は紬が目を丸くする番だった。
「歓迎会?」
「そうだよ。何だいその顔」
「いや、急だなと思って」
「急で悪いかい。こういうのは思い立った日にやるもんだろ」
そういうものなんだろうか。
私には全然わからない。
椿はずかずか部屋へ入ってくると、腕を組んだ。
「燈がこの屋敷で暮らすことになった。霊の扱いも少しはじめた。だったら一度くらい、ちゃんと“歓迎してるよ”って形にしといた方がいい」
その言い方は雑なのに、内容は思ったよりまっすぐだった。
「白嶺も雲仙様も話は通してある」
「通したんだ……」
「通したよ。白嶺は渋い顔してたけどね」
「目に浮かぶ……」
紬が小さく笑う。
「で、宴って、何するの」
私が聞くと、椿は少しだけ得意そうな顔をした。
「何って、食って飲んで話すんだよ。難しいことはなし」
「飲むのは君だけで十分だ」
不意に部屋の外から白嶺の声がした。
見ると、白嶺が障子の外に立っている。
いつから聞いていたんだろう。
「何だい、来るなら最初から入りなよ」
「君が騒がしいから、入る前から状況がわかっただけだ」
白嶺はそう言いながら部屋へ入ってきた。
「宴は構わない。だが、燈を疲れさせるな」
「わかってるさ。アンタ、ほんと保護者みたいだね」
椿がにやにやする。
白嶺は完全に無視した。
「雲仙様も少しだけ顔を出されるそうだ」
その一言に、私は思わず背筋を伸ばす。
「雲仙様も?」
「最初だけだろうけどね」
紬が補足する。
「でも、ちゃんと“歓迎”って形にしたいんだと思う」
私は急に落ち着かなくなった。
歓迎される、ということがまだあまり現実味を持たないからだ。私はただ迷い込んだだけなのに。
それを見透かしたみたいに、椿が言う。
「そんな顔すんな。堅苦しいのじゃないよ」
「でも……」
「でもじゃない」
椿は私の肩を軽く叩く。
「燈は黙って座って、うまいもん食ってりゃいいの」
その言い方が、少しだけ可笑しかった。
宴の場所は、昼に制御をした庭とは別の、少し広い座敷だった。
低い卓がいくつか並べられ、上にはもう料理が運ばれている。焼いた魚に似たもの、色の濃い煮物、湯気の立つ汁、甘い香りのする小さな菓子まであった。傀儡たちが静かに出入りしているけれど、今日はその動きも昨日ほど怖く感じなかった。
私は座敷の隅に座って、そっと周りを見回した。
紬が向かいにいて、椿はその隣。白嶺は少し離れた位置に座っている。
やがて、雲仙様もゆっくりと姿を見せた。
「そうかたくなるでない」
私の顔を見て、雲仙様が穏やかに言う。
「今日は祝いの席である」
「……はい」
ぎこちなく答えると、椿がすぐに口を挟む。
「ほらね。だから堅苦しくなくていいって言ったろ」
「君が言うと余計に怪しい」
「アンタはほんと余計なことしか言わないね」
そのやり取りに、紬が吹き出す。
雲仙様も小さく目を細めた。
それから始まった宴は、私が思っていたよりずっとやさしいものだった。
大声で騒ぐわけでも、何かを無理にさせられるわけでもない。
椿が「これ食べな」と次々皿を寄せてきて、紬が「それちょっと味濃いからこっち先の方がいいよ」と助け舟を出して、白嶺がたまに「椿、与えすぎだ」と止める。そのくり返しだった。
「燈、これもうまいよ」
「まだそんなに食べられない」
「食える食える」
「椿、君の基準で言うな」
「何だい、アンタは少食すぎるんだよ」
「普通だ」
「普通って何だい」
そんな会話を聞きながら、私は少しずつ口に運んだ。
料理はどれも見た目が少し違うだけで、食べてみると案外やさしい味のものが多い。とくに薄い琥珀色の汁は、飲むとほっとした。
途中で雲仙様は私の方を見て、静かに言った。
「燈よ」
「はい」
「そなたは、ここへ迷い込み、知らぬものばかりを見た。怖れも戸惑いも尽きぬであろう」
部屋の中が少し静かになる。
「されど、急ぐことはない。ここにおるあいだは、知り、学び、休むがよい」
その言葉は、前よりも少しだけ素直に胸に入ってきた。
私は小さく頷く。
「……はい」
雲仙様はそれ以上は何も言わず、湯呑を置いた。
それだけで、なんだかちゃんと歓迎された気がした。
宴が少し進んだころ、椿は自分の杯を持ち上げた。
中身はたぶん酒なんだろうけど、ほんの少ししか入っていない。
「ほら、燈の歓迎だよ」
「椿、それ以上はやめておけ」
白嶺がすぐに言う。
「何だい、一口くらい平気さ」
「前回もそう言っていた」
「前回は前回だろ」
紬が肩を震わせて笑う。
「椿、ほんと懲りないね」
「うるさいよ」
結局、椿は一口だけ飲んで、すぐに顔が少し赤くなった。
それを見て、私は思わず笑ってしまう。
「……ほんとに弱いんだ」
「弱くないよ」
「赤い」
「これは元からだ」
「嘘だろ」
白嶺が淡々と返す。
椿は「アンタは黙ってな!」と睨んだけれど、そのやり取りまで含めて、私は少しずつおかしくなってきた。
怖いことも、難しいことも、まだ何も終わっていない。
自分の中の火も、妖魔界のことも、家族のことも、これからたくさん考えなくちゃいけない。
でも今この瞬間だけは、私はちゃんとここにいて、笑っていていいのかもしれないと思えた。
気づけば、肩の力が少し抜けていた。
この場所が“家”になるとはまだ思えない。
それでも、ただの知らない場所ではなくなりはじめている。
そのことが、胸の奥に小さくあたたかかった。