第七話 はじめての朝
目が覚めたとき、私はしばらく、どこにいるのかわからなかった。
天井は高くて、薄い木の色をしている。障子の向こうからは、朝のやわらかい光がぼんやり差し込んでいて、部屋の隅には昨日買ったばかりの包みがきちんと置かれていた。
そこでようやく、私は昨日起きたことを少しずつ思い出した。
赤い鳥居。
白い翼。
椿の角。
雲仙様の静かな声。
それから、自分の命の話。
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
帰りたい、と思う気持ちは消えていなかった。
でも、その一方で、今の私は確かにここにいて、この部屋で目を覚ましたのだということも、もうわかっていた。
布団の上で上半身を起こし、私はそっと部屋の中を見回した。
昨日の夜、屋敷へ戻ってきたときにはもう疲れすぎていて、部屋の様子をちゃんと見る余裕なんてなかった。
今あらためて見ると、ここは思っていたよりずっと落ち着いた場所だった。
畳は青い匂いがして、障子の向こうには小さな庭が見える。庭石のあいだを青白い細い光が流れていて、それが水じゃなく霊力だということを、私はもう知っていた。壁際には低い棚があり、昨日買った櫛や布、小さな鏡や髪紐がそこへきれいに並べられている。
誰が並べたんだろう。
私が寝る前に置いたままの形ではなかったはずだから、きっと紬か、それとも屋敷の誰かが整えてくれたのだと思う。
そう考えたところで、障子の向こうから、控えめな音がした。
「燈ちゃん、起きてる?」
紬の声だった。
「……起きてる」
そう返すと、障子が静かに開く。
入ってきた紬は、昨日と同じようにきちんとした格好をしていたけれど、どこか朝のやわらかさがあった。三本の尾も、今は少しだけゆるく揺れていて、夜に初めて会ったときよりずっと年相応の少年らしく見える。
「おはよう」
「おはよう」
私が返すと、紬は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと眠れた?」
「たぶん」
本当は、ぐっすり眠れたとは言いがたかった。
夜中に何度か目が覚めたし、そのたびに、祖父母の家じゃない天井を見て、ああここは妖魔界なんだ、と思い出した。
でもそれを全部そのまま言うのも何だか変で、私は曖昧に答えた。
紬はそれ以上は聞かず、手に持っていた盆を低い卓へ置いた。湯気の立つお椀と、小さな皿が二つ。どちらも人間の世界で見た朝ごはんとは少し違うけれど、やさしい匂いがした。
「朝は軽いものの方がいいかなと思って。食べられそう?」
「うん」
「よかった」
紬はほっとしたように笑う。
「椿は“腹減ってなきゃ元気も出ない”って言ってたし、白嶺は“最低限でも口に入れろ”って言ってた」
その二人の言い方が、なんだかすごく想像できて、私は少しだけ笑ってしまった。
「白嶺は?」
「もう起きてる。というか、たぶんだいぶ前から起きてる」
「椿は?」
「椿も起きてるよ。庭の方で、朝から何か持ち上げてた」
「何か」
「たぶん鍛錬」
鍛錬。
朝から。
それもすごく椿らしい気がして、私はまた少しだけ笑った。
朝ごはんは、薄い塩味の汁物と、やわらかい白い団子みたいなものだった。最初は見たことがなくて戸惑ったけれど、食べてみると優しい味で、寝起きの体にちょうどよかった。
「よかった、口に合わないかと思った」
向かいに座っていた紬が言う。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん」
そう答えると、紬は少し照れたみたいに目をそらした。
「僕が作ったわけじゃないけど」
「でも持ってきてくれた」
「それくらいはするよ」
さらっと言うけれど、その“それくらい”が今の私にはすごくありがたかった。
食べ終わったころ、紬は部屋の外を見てから言った。
「今日は、屋敷の中を少し案内しようと思うんだ」
「案内?」
「うん。いきなり全部は無理でも、使う場所くらいは知っておいた方が落ち着くでしょ」
たしかにそうだった。
ここに来てから、私は誰かに連れられて移動するばかりで、自分が屋敷のどこにいるのかもちゃんとわかっていない。
「それに、雲仙様も“まずは慣れよ”って仰ってたし」
私は頷いた。
慣れる、という言葉はまだ少し遠かったけれど、何もしないで部屋に座っているだけよりはましな気がした。
新しく買った着替えに袖を通すのは、ちょっと変な感じがした。
薄水色の布地はやわらかくて、今まで着ていた服と形も重さも違う。紬が手伝ってくれなかったら、たぶんちゃんと着られなかったと思う。
「こう?」
「うん、そんな感じ。帯はきつすぎない?」
「だいじょうぶ」
髪も昨日買った紐で軽くまとめてもらった。小さな鏡に映る自分はいつもの私なのに、着ているものだけが違っていて、少しだけ借り物みたいだった。
「似合ってるよ」
紬が言う。
「……ほんとに?」
「うん。昨日よりこっちの方が、この屋敷では過ごしやすいと思う」
“似合う”より“過ごしやすい”が先に来るあたりが紬らしいと思った。
部屋を出ると、朝の屋敷は昨日の夜とはまた違って見えた。
庭の木々には朝露みたいな光が残っていて、回廊の板はやわらかく光を返している。夜には静かすぎると感じた空気も、朝だと少しだけ息をしやすかった。遠くからは、どこかで水の音に似たものが聞こえる。たぶん霊力の流れる音だ。
「まずは、こっち」
紬が先に立って歩き出す。
私はそのあとをついていった。
最初に案内されたのは、昨夜も少しだけ通った中庭の近くだった。
白い石が敷かれ、青い光の筋が細く流れるその庭は、朝の方が輪郭がはっきりして見える。
「ここはあんまり一人で奥まで行かない方がいいよ」
紬が言う。
「どうして?」
「迷うから」
「迷う?」
「屋敷、見た目よりずっと広いんだ。しかも同じような回廊が多いし」
それは少しわかる気がした。
昨日の夜も、紬がいなかったら、私は自分の部屋に戻れた気がしない。
「それに」
紬は少しだけ声を落とす。
「立ち入っちゃいけない場所もあるから」
私は思わず背筋を伸ばした。
「わかった」
「うん。燈ちゃんは、言えばちゃんと聞いてくれそうで助かる」
「それ、どういう意味?」
聞くと、紬は困ったように笑う。
「椿がたまに聞かないんだよ」
「聞こえてるよ!」
不意に頭上から声がして、私は飛び上がりそうになった。
見上げると、二階の回廊みたいな場所に椿が立っていた。朝からやっぱり元気そうで、片腕を欄干に乗せながら、こっちを見下ろしている。
「君ね……急に大きな声出さないでよ」
紬が少し呆れた顔をする。
「いいじゃないか。燈、起きてたんだね」
「起きてた」
「その服、悪くないじゃないか」
椿は満足そうに頷いた。
「ほら、昨日のあたしの見立て、間違ってなかったろ」
「半分くらいは僕の見立てでもあるだろう」
今度は別の方向から声がした。
振り向くと、白嶺が庭の向こうから歩いてくるところだった。朝の光の中で見ると、やっぱり白い翼がやけに目立つ。夜よりもはっきりして見えるせいか、私は一瞬だけまた息を呑んでしまった。
それを見た椿がにやりとする。
「何だい、朝から細かいこと言うねえ」
「事実だ」
「朝からそればっかだね、アンタ」
白嶺は椿の軽口を流して、私を見た。
「眠れたか」
「……少しは」
「そうか」
短い。
でも、その短い言葉の中に一応気にしてくれている感じはあった。
「今日は屋敷の中を見て回るそうだな」
白嶺が紬に視線を向ける。
「うん。まずは使う場所だけでも覚えてもらおうと思って」
「それでいい。むやみに外へ出すより安全だ」
「外へ出すって……」
私が小さく言うと、椿が二階からひょいと飛び降りてきた。
あまりにも軽々とした動きで、私はまたびくっとする。
「まだ燈には早いってことさ」
椿はそう言って、私の背中をばしっと軽く叩いた。
「まずはこの屋敷に慣れな」
軽く、のつもりだったんだろうけど、思ったより力が強くて私は一歩よろけた。
「椿」
紬が眉を寄せる。
「雑」
「ちゃんと加減したよ」
「たぶん基準が違う」
紬の言い方に、私は思わずうなずいてしまった。
椿は「何だいそれ」と笑う。
そこまでは、まだよかった。
問題は、その次だった。
回廊の角を曲がったところで、私はその“人”と鉢合わせした。
白い衣に身を包んだ、細身の女の人。手には盆を持っていて、こちらへ向かって静かに歩いてくる。私は反射的に道をあけようとして、その人も同じようにぴたりと立ち止まった。
その動きが、妙にぴたりとしていて。
心臓が変な音を立てた。
目が合った、と思った。
けれど、その目にはまばたきがない。
「あっ……」
声が出るより早く、私は半歩下がっていた。
その“人”は、ゆっくりと、正確すぎる角度で頭を下げた。
それだけなのに、背中がぞわっとする。
「……くぐつ?」
やっとのことでそう言うと、紬が「ああ」と頷いた。
「うん。給仕用の傀儡」
わかっていても、怖いものは怖かった。
都で見た傀儡も人に似ていたけれど、通りの中に混じっていたからまだよかったのかもしれない。こうして静かな屋敷の中で、いきなり間近に立たれると、どうしても体が強ばる。
私は気づいたら、紬の袖を少しだけ掴んでいた。
自分でもそれに気づいて、慌てて手を離す。
「ご、ごめん」
「ううん」
紬は怒らなかった。ただ少しだけやわらかく笑って、私の前に半歩出る。
「この子たちは何もしないよ。ちゃんと命じられたことしかできないし、燈ちゃんに触れたりもしない」
「でも……」
「人みたいすぎて怖い?」
私は小さく頷く。
紬は少しだけ考えてから、傀儡の方を見た。
「戻っていいよ」
そう言われると、傀儡はまたぴたりと頭を下げ、音もなく去っていった。
それを見届けてから、椿が腕を組む。
「燈はああいうの苦手か」
「苦手っていうか……」
「びびってたねえ」
茶化すでもなく、ただ事実みたいに言われて、私は唇を結んだ。
白嶺が静かに言う。
「無理もない。人に似せて作られているからな」
「似せすぎじゃない?」
思わずそう言うと、紬が小さく笑った。
「それはよく言われる」
「でも、屋敷の中では本当に便利なんだよ。食事を運んだり、掃除をしたり、書類を届けたり、案内したり。全部僕らだけでやるよりずっと早いから」
「便利なのはわかるけど……」
わかるけど、怖い。
その二つがうまく一緒にならない。
椿が私の顔を覗き込む。
「そのうち慣れるさ」
「そんな簡単に言わないでよ」
「簡単だよ。何回も見りゃそのうちどうでもよくなる」
「君はそうだろうが、燈は違う」
白嶺が言う。
それから私の方を向いて、少しだけ声を落とした。
「無理に慣れようとしなくていい。だが、怯えすぎるな。恐怖に飲まれると、余計な反応を招く」
「余計な反応?」
「霊の揺れだよ」
紬が補足する。
「燈ちゃん、たぶん怖がると自分で思ってるより霊力が揺れるんだ。昨日も、そうだったんじゃないかな」
私は黙った。
たしかに、あの黒い影に襲われたとき、胸の中が熱くなった。
怖さが、そのまま何かの引き金になったみたいに。
「だからさ」
椿が私の頭をぐしゃっと撫でた。
「びびるな、ってんじゃないよ。びびってもいい。でも、びびったまま立てなくなるなってこと」
「椿、それ励まし方が雑すぎる」
「通じるだろ」
「……まあ、なんとなく」
そう答えると、椿は満足そうに笑った。
それから午前のあいだ、紬は本当に丁寧に屋敷の中を案内してくれた。
使っていい手洗いの場所。
食事を運ぶ時に通る回廊。
客間の区画と、それより奥へ行ってはいけないこと。
中庭の近くは朝と夕で傀儡の往来が増えること。
私の部屋から一番近い小さな休み処。
屋敷の中にも、外の都みたいに“流れ”があること。
私はそのたびに頷いたり、同じことを二回聞いたりした。
紬は嫌な顔ひとつしなかった。
白嶺はずっとついてくるわけではなく、途中で何度か別の用事に呼ばれて離れた。けれど、離れる前に「この先へは行くな」とか「困ったら紬を呼べ」とか、必要なことだけはきちんと言っていった。
椿は逆に、最初はついてきていたのに、途中から「退屈だねえ」と言って庭の方へ行ってしまった。
でもしばらくすると、またふらっと戻ってきて、私が傀儡にまだ少し身構えているのを見ると「まだ慣れないのかい」と笑った。
その笑い方が、馬鹿にしてる感じじゃないのがわかるから、腹も立たない。
昼前になって、紬が私を小さな縁側へ連れていった。
庭の向こうに、朝見た大きな木の枝が少しだけ見える場所だった。
「ちょっと休もう」
そう言って、紬は自分も隣に座る。
風はやわらかくて、屋敷の中の匂いにも少し慣れてきた気がした。
青白い霊力の筋が庭石のあいだを流れていくのを見ていると、最初みたいな“ただ不思議で怖いもの”という感じは少し薄れている。
「……紬くんって、ずっとここで働いてるの?」
なんとなく聞くと、紬は少しだけ首を傾げた。
「働いてるっていうか……うん、まあ、そうかな。かなり長いよ」
「大変じゃない?」
「大変なこともある」
紬はすぐには否定しなかった。
「でも、ここは僕の居場所でもあるから」
その言い方が少しだけ寂しそうに聞こえて、私はそれ以上すぐには言葉を続けられなかった。
すると後ろから、椿の声が飛んできた。
「何だい、もうへばったのか」
「休んでるだけだよ」
「同じようなもんだろ」
椿はそう言って、私の向かいにどさっと座る。
その少しあとで白嶺も戻ってきて、縁側の柱にもたれるみたいに立った。
気づけば四人そろっていた。
そのことが、少しだけ不思議だった。
私はまだこの世界のことをほとんど知らない。
屋敷にも慣れていないし、傀儡は怖いし、都は広すぎる。
でも、こうして同じ場所に座っていると、ひとりで放り出されているわけではないのだと、少しだけ思えた。
「……まだ、ちょっと怖いけど」
ぽつりとそう言うと、三人がこちらを見る。
「でも、朝よりは少しだけ、平気になったかも」
紬がほっとしたみたいに笑った。
「ならよかった」
椿は腕を組んだまま頷く。
「その調子さ」
白嶺は少しだけ目を細めただけだった。
でも、その反応が何となく“それでいい”と言っているように見えて、私は小さく息を吐いた。
屋敷での暮らしは、まだ始まったばかりだった。