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Novel

幽世の燈

  • 和風幻想
  • 長編

プロローグ

「——おい、あれは人間か?」

知らない声がして、私は足を止めた。

そのとき私は、祖父母の家の裏山に続く細い山道をひとりで歩いていた。夏休みの昼下がりで、空気はぬるく、蝉の声がうるさいくらいに響いている。少し前まで晴れていたはずなのに、木が深く茂るこのあたりは妙に薄暗くて、肌にまとわりつく湿気までひんやりしていた。

道の先に、赤い鳥居が立っている。

こんなところに、こんなのあっただろうかと思った。

鳥居は大きくはなかった。けれど、周りの木々に半分飲み込まれるみたいにぽつんと立っていて、奥には小さな祠まで見える。そのくせ、古びているのか新しいのかもよくわからない、不思議な感じがした。

たぶん、それだけなら通りすぎていたと思う。

でも、確かに聞こえたのだ。

今みたいに、誰かが話す声が。

私はごくりと唾を飲み込んだ。

「……だれ?」

返事はない。

聞こえるのは蝉の声と、風に葉がこすれる音だけだ。なのに、誰もいないはずの鳥居の向こうから、何かの気配だけがじっとこちらを見ている気がした。

怖い。

怖いのに、足が動かなかった。

逃げた方がいいと頭ではわかっているのに、目だけが鳥居の向こうを見ようとしてしまう。祠の前の影が、さっきより濃くなった気がした、そのときだった。

木陰から、すっと人影が現れた。

私は息を呑んだ。

最初に見えたのは、白だった。

雪みたいに真っ白な、大きな翼。

それが背中から広がっている男の人が、鳥居の奥に立っていた。銀白色の髪も、伏せた睫毛も、着ているものの色までどこか淡くて、でも顔立ちは驚くほどはっきりしていて、綺麗という言葉しか出てこない。なのに、その綺麗さがかえってこわかった。人間のはずがない、と見た瞬間にわかってしまったから。

その隣には、もうひとりいた。

背の高い女の人だった。肩も腕も私の知っている女の人よりずっとたくましくて、頭には大きな角が二本、生えている。きつそうな顔立ちなのに、口元だけが面白がるみたいに少し笑っていて、そのせいで余計に何者かわからなかった。

「へえ」

角のある女の人が、私を見て目を細めた。

「ほんとに人間じゃないか」

「妙だな」

白い翼の男の人が、静かな声で言った。

「この境が見えるはずがない」

境。

その言葉の意味がわからなくて、私はただ二人を見返した。

足が震えているのがわかる。逃げなきゃいけないのに、目の前の光景が現実じゃないみたいで、どうしても動けなかった。

角のある女の人が、ずいと一歩前に出る。

思わず肩が跳ねた。

「おっと、そんなに怯えなくてもいい。取って食いやしないさ」

そう言われても、安心できるわけがない。角が生えていて、どう見ても人間じゃない相手に、食べないから大丈夫だなんて言われても、余計に怖いだけだった。

たぶんその気持ちが顔に出ていたんだと思う。女の人は一瞬だけきょとんとして、それからおかしそうに笑った。

「なんだい、その顔。まあ、無理もないか」

「椿」

白い翼の男の人が、少しだけたしなめるように言う。

「脅かすな」

「脅かしてないよ。あたしは優しくしてるつもりなんだけどね」

椿。

それがこの人の名前らしい。

私はその名前を心の中で繰り返した。つばき。花みたいなきれいな名前なのに、目の前の人は大きくて、強そうで、今にも岩でも砕けそうだった。

白い翼の男の人は、私から目を逸らさないまま言った。

「君、名はなんという」

「……あかり」

かすれた声で答えると、自分でも驚くくらい小さな音だった。

「燈、です」

「燈」

男の人は確かめるみたいに一度だけ私の名前を口にして、わずかに眉を寄せた。

「どうやってここへ来た」

「どうやってって……歩いて……」

「それは見ればわかる」

言い方はきつくないのに、何を考えているのかわからない。怒っているわけでもないのに、なんとなく、叱られているみたいな気分になって私は口をつぐんだ。

すると椿さんが横から口を挟む。

「おいおい、そんな聞き方したら余計にびびるだろ。見りゃわかるじゃないか、ただの子どもだよ」

「ただの子どもがここまで来られるものか」

「それはそうだけどさ」

椿さんは困ったみたいに頭をかいて、それからしゃがんで私と目線を合わせた。近くで見ると、角は思ったよりも艶があって、犬歯が少し鋭い。やっぱり怖いのに、不思議とさっきよりは息がしやすかった。

「燈、って言ったね。あんた、自分が今どこにいるかわかってるかい?」

私は首を横に振った。

「……おじさんが、山には変な場所があるって言ってて」

「変な場所、ねえ」

椿さんは喉の奥で笑った。

「間違っちゃいない」

「笑い事じゃない」

白い翼の男の人が、今度ははっきり不快そうに言った。

その声で、空気が少しだけ冷えた気がした。私は思わずそちらを見る。

綺麗な人だと思った。けれど、近づきやすい綺麗さじゃない。触れたら切れそうな薄い氷みたいな感じだった。

私の視線に気づいたのか、男の人は少しだけ目を伏せた。

「……僕は白嶺だ」

低くも高くもない、落ち着いた声だった。

「こいつは椿。見た目どおり少々乱暴だが、他の鬼のように人間を喰ったりはしない」

「おい」

椿さんがすぐに眉を吊り上げる。

「紹介の仕方ってもんがあるだろ」

「事実を言ったまでだ」

「見た目どおりって何だい、見た目どおりって」

「そのままの意味だ」

言い返しながらも、白嶺さんの声は少しも揺れなかった。二人は仲が悪いわけじゃなさそうなのに、言葉の端がちくちくしていて、なのに不思議と息は合っているみたいだった。

私はそのやりとりを見て、少しだけ肩の力が抜けた。

怖い。まだ怖い。

でも、目の前の二人は、私が想像していたような“化け物”とは少し違う気がした。

その瞬間だった。

ざわっ、と鳥居の奥の木立が揺れた。

ぴんと、空気が張る。

白嶺さんの表情が変わった。さっきまでの静けさとは違う、鋭い緊張が宿る。

「下がれ、燈」

言われた意味を考えるより早く、椿さんが私の肩を引き寄せた。

次の瞬間、祠の陰から真っ黒い影が這い出してきた。

人の形に似ているのに、顔がない。どろどろとしたものが無理やり立ち上がったみたいな影が、地面を引きずるようにしてこちらへ向かってくる。見た瞬間、ぞっとした。怖い、というより嫌だった。見ているだけで気持ちが悪くなる。

「ああ、下っ端が寄ってきたか」

椿さんが舌打ちまじりに言う。

「燈が見えてるって気づいたんだろうね」

「面倒だな」

白嶺さんは片手を上げた。白い羽が風に鳴る。

けれど、その前に。

影のような何かが、私を見た。

目なんてないはずなのに、はっきりとそう感じた。

背筋が凍る。息が止まる。

怖い、と思った、その次には、胸の奥が熱くなった。

自分でもわからない。

何かが体の中でふっと目を覚ましたみたいに、熱が広がる。逃げたいのに、足は動かない。なのに、その影の方が、突然びくりと震えた。

そして、ずるりとその場に崩れ落ちる。

まるで見えない何かに押さえつけられたみたいに、地面に這いつくばったまま、動けなくなった。

「……は?」

椿さんが、素っ頓狂な声を出した。

白嶺さんも、初めてはっきりと目を見開く。

「今のは……」

自分が何をしたのか、私にはわからなかった。

胸が苦しい。足元がふらつく。視界がぐらりと揺れて、私はよろめいた。

「おい、燈!」

椿さんの声が近くなる。

そのあと、誰かの腕に体を支えられた。ひんやりした羽根の感触が頬に触れて、白いものが目の端をよぎる。

「気を失うぞ」

白嶺さんの声が、すぐそばでした。

「椿、この子を連れていく」

「最初からそのつもりだよ」

「父様に見つかる前に」

その言葉だけ、妙にはっきり耳に残った。

とうさま。

誰のことだろうと思ったけれど、もう考えられなかった。

重くなるまぶたの向こうで、赤い鳥居がぼやけていく。

蝉の声だけが遠くで鳴いていて、私はそのまま、深い闇の中へ沈んだ。