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Novel

幽世の燈

  • 和風幻想
  • 長編

第四話 雲仙様

白嶺が門の前で足を止めた。

私もつられて立ち止まり、もう一度、目の前の屋敷を見上げる。

近くまで来ると、その大きさはさっき遠くから見たときよりずっとはっきりしていた。高く積み重なる屋根も、白い壁も、広く取られた石段も、全部がきちんと整いすぎていて、少し息苦しいくらいだった。都の中はあんなに賑やかだったのに、この門の前だけ空気が違う。静か、というより、余計な音が入れないみたいな感じがした。

遠くではまだ都のざわめきが続いている。人の声も、足音も、どこかで鳴る鈴の音も、たしかに聞こえている。なのに、それが一枚薄い膜を隔てた向こう側の音みたいに遠い。ここだけ、都の中から切り分けられているみたいだった。

門の両脇には、背の高い灯籠のようなものが立っていた。火は灯っていないのに、内側で青白い光がゆっくり揺れている。見ていると、胸の奥がわずかにざわついた。ただの明かりじゃない。都の中で見た妖工霊力の光と似ているのに、もっと静かで、もっと濃いものに見えた。

「ここから先は、勝手なことをするな」

白嶺が言う。

声はいつも通り落ち着いていたけれど、都を歩いていたときより少しだけ低かった。

「……うん」

答えた自分の声が、思ったより小さい。
大きな声を出すのが、なんだか場違いな気がした。

椿はそんな私を見て、ふっと息を吐いた。

「そんなにこわばらなくてもいいよ。食われたりはしないさ」

「その言い方はやめろ」

「事実だろ」

二人のやりとりはいつも通りなのに、それでも私は落ち着かなかった。
ここに、雲仙様がいる。
そう思うだけで、喉の奥が少し乾く。

白嶺が門に手をかざす。

その瞬間、灯籠の内側で揺れていた青白い光が、細い筋になって門へ走った。白い壁の表面にも一瞬だけ淡い文様みたいなものが浮かび上がって、すぐに消える。鍵穴も、引き手も見当たらなかったのに、重たそうな門は音もなく左右に開いていった。

私は思わず息を呑んだ。

都で見た運搬箱や昇降機も不思議だったけれど、目の前で起きたそれは、もっと別のものに見えた。便利な仕組みというより、屋敷そのものが私たちを選んで中へ入れるみたいだった。

門の向こうには、広い庭があった。

白い石が敷き詰められ、そのあいだを細い水路のように青い光が流れている。大きな木々はひとつひとつ形を整えられ、枝の伸び方まで計算されているみたいだった。奥へ続く回廊も、柱も、敷石も、何ひとつ無駄がない。都の通りで見た賑やかさが嘘みたいに、そこには静かな秩序だけがあった。

きれいだ、と思うより先に、背筋が伸びる感じがした。

こんな場所、勝手に走ったりしたらすぐに怒られそうだと思う。
実際に誰かに見張られているわけじゃないのに、そう思ってしまう空気があった。

「行くぞ」

白嶺が先に庭へ足を踏み入れる。
椿が私の背を軽く押した。

「ぼさっとしてると置いてくよ」

そう言われて、私は慌てて二人のあとを追った。

敷石の上を歩くたび、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる気がする。都の中では人や傀儡の足音が重なっていて、自分の音なんてほとんどわからなかったのに、ここでは違った。白嶺はほとんど音も立てずに進んでいくし、椿でさえ都の中よりずっと静かだった。

庭を横切るあいだ、何人かの人影とすれ違った。

最初は人だと思った。けれど近くで見ると、動きが少しきっちりしすぎている。傀儡だった。都の通りを歩いていたものたちよりも衣装が整っていて、所作にも隙がない。私たちに気づくと、みな一様に立ち止まり、揃った動きで頭を下げた。

私は思わずそのたびにびくっとする。

「……みんな、お辞儀した」

「そういう役目のやつらだからね」

椿が小声で言う。

「ここにいるのは、そこらの案内役より上等だよ」

「上等……」

「この屋敷は、雲仙様の霊府でもある」

白嶺が前を向いたまま言った。

「都の中心であり、行政の要でもある。出入りする者も、働く者も、それに見合った役を与えられている」

難しい言い方だったけれど、とにかくここが都の中でも特別な場所なんだということだけはわかった。

回廊へ上がると、空気が少しひんやりした。外の夕風とは違う。水を張った場所の近くを通るときみたいな、静かな冷たさだった。床板は磨かれていて、柱には薄い金色の模様が走っている。派手ではないのに、どこを見てもお金と手間がかかっていそうだと思ってしまう。

回廊の途中で、私は思わず足を止めかけた。

庭の奥に見える建物が、さらに大きかったからだ。

何重にも重なる屋根。広い階。高く伸びる楼。都の中で見上げたどの建物よりも大きいのに、ただ大きいだけじゃなく、全体がひとつの形にまとまっている。その中心へ向かって、さっき庭で見た青白い霊力の筋が集まっていくのが見えた。

まるで都の中を流れていたもの全部が、最後にはあそこへ帰っていくみたいだった。

「……あれが」

声が自然と小さくなる。

椿が隣で、少しだけ顎を上げた。

「ああ。雲仙様のお屋敷だよ」

私は何も言えなかった。

遠くからでも大きいと思っていたのに、近づくほどその感じは強くなる。建物そのものが霊力を持っているみたいだった。見ているだけで、胸の奥が小さく震える。怖いとか、綺麗とか、そういう一つの言葉じゃ足りない。

そのとき、回廊の奥から足音がした。

軽い、けれど急ぎすぎない足音だった。
やがて柱の向こうから現れたのは、見知らぬ男の子だった。

私と同じか、少し上くらいに見える。きちんとした和服を着ていて、淡い色の髪のあいだから、ぴんと立った狐の耳がのぞいていた。後ろには、やわらかそうな尾が三本、行儀よく揺れている。

「白嶺、椿」

男の子は二人の姿を見ると、少しだけ表情をゆるめた。
その声は思っていたより落ち着いていて、やわらかい。

「戻ってたんだね」

「見ての通りだ」

白嶺が短く答える。

けれど声は、都の中で周りに向けていたときよりほんの少しだけやわらいでいた。

「相変わらず愛想ないねえ」

椿が鼻で笑う。

「紬、アンタくらいは久しぶりだの何だの言ってやんなよ」

紬、と呼ばれた少年は困ったように笑った。

「椿がそれを言うの」

「言うさ」

そのやりとりだけで、この三人が前から知り合いなんだということがわかった。

でも紬はすぐに、私の方を見た。
その視線に、私は思わず肩をこわばらせる。

驚いたような顔をしたのは一瞬だけだった。紬はすぐに目元をやわらげて、私に向かって小さく頭を下げた。

「君が、燈ちゃん?」

私は戸惑いながら頷いた。

「……うん」

「そっか」

紬はそれ以上じろじろ見たりしなかった。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。

「雲仙様がお待ちだよ」

その言葉に、胸の奥がまた緊張で固くなる。

紬はそんな私を見て、少しためらうように間を置いてから言った。

「そんなに怖がらなくて大丈夫。……びっくりはするかもしれないけど」

「それ、安心できる言い方かい?」

椿が呆れたみたいに言うと、紬は「あ」と小さく声を漏らした。

「ごめん。そういうつもりじゃ」

「紬は気ぃ遣いすぎなんだよ」

「椿は雑すぎる」

白嶺が挟む。

紬は少しだけ肩をすくめて、それから改めて私を見た。

「でも、本当に心配しなくていいよ。雲仙様は……君を傷つけたりしない」

その言葉は、白嶺の言い方とも、椿の言い方とも少し違っていた。
ちゃんと私を安心させようとしてくれているのがわかって、私は小さく頷く。

紬はそれを見て、ほんの少しだけほっとしたみたいに笑った。

「じゃあ、案内する」

そう言って回廊の奥へ向き直る。
白嶺がそのあとに続き、椿が私の隣に並ぶ。

私は回廊の先を見つめた。

この先で、雲仙様に会う。
そう思うとまだ怖い。けれど、さっきよりほんの少しだけ、その怖さの形がわかる気がした。

紬のあとについて歩き出すと、回廊は思っていたよりずっと長かった。

外から見たときも広い屋敷だと思ったけれど、中に入るとその広さはもっとはっきりする。曲がっても曲がっても、似たように整った柱と床が続いて、その向こうにまた別の庭や別の建物が見える。白い石を敷いた中庭、浅く水をたたえた庭池、細い橋、青白い霊力の筋が静かに走る壁。どこを見てもきれいなのに、少しも気が抜けない。

ふと、回廊の脇で立ち止まっていた傀儡が私の方を向いた。

びくっとして足が止まりそうになる。

けれど、その傀儡は何も言わず、ただ頭を下げただけだった。紬が通り過ぎるたび、屋敷の中で働いているらしい傀儡たちが同じように礼をする。都の通りで見たものたちより、ずっと動きがなめらかで、服装も揃っていた。人と見分けがつきにくいくらい整っているのに、やっぱりどこか違う。

「……この屋敷の傀儡、ちょっと怖い」

思わず小さく言うと、紬が少しだけ振り返った。

「怖い?」

「なんか……ちゃんとしてる」

自分でも変なことを言っていると思う。
でも、そうとしか言えなかった。

紬は一瞬きょとんとして、それからくすっと笑う。

「ちゃんとしてる、か。うん、そうかもしれない」

「ここにいる傀儡は、都の通りにいるものより上等なんだよ」

椿が口を挟む。

「雲仙様の霊府だからね。下手な仕事はさせられない」

「霊府……」

「雲仙様のお屋敷は、住まいでもあり、都の政を司る場所でもある」

白嶺が言った。

「だから、ここで働くものも、ここに置かれるものも、外より厳しく整えられている」

私はまた周りを見る。
たしかにそう言われると、屋敷の中は静かなだけじゃなかった。何もかもがちゃんと役目を与えられて、その通りに動いているみたいだった。傀儡も、人も、庭の木々や灯りの位置でさえ、ここでは何ひとつ余計なものがない。

紬が少しだけ歩調をゆるめて、私の隣に近づいた。

「疲れてない?」

「だ、大丈夫」

そう答えたけれど、自分でも少し強がってるのがわかる。
紬もたぶん気づいていた。でも無理に問いつめたりはせず、「ならよかった」とだけ言って、また少し前へ戻った。

それだけのやりとりなのに、少し安心する。

白嶺と椿が頼りにならないわけじゃない。むしろ二人とも、今日ずっと私を守ってくれていた。
でも紬は、その二人とは違う意味で、話しかけやすかった。

回廊を折れた先で、視界が少し開ける。

そこには、今までよりさらに大きな庭が広がっていた。中央に一本、ひどく大きな木が立っている。何の木かはわからない。幹は太く、枝は大きく広がっていて、その葉のひとつひとつが夜の前の光を受けて淡く青みがかって見えた。

木の根元からは、細い光の筋が何本も地面へ流れ出している。まるで都のあちこちを巡っていた妖工霊力の流れが、最後にはこの木の下へ戻ってきているみたいだった。

私は思わず足を止める。

「……あれ、何?」

白嶺ではなく、答えたのは紬だった。

「霊脈の結び目だよ」

「むすびめ……」

「この都の霊の流れが集まる場所」

紬の声はやわらかい。でも、その言葉にはちゃんと重みがあった。

「雲仙様のお屋敷がここにあるのも、そのせい」

私はもう一度、その木を見上げる。
都を歩いてきたときに見た青白い光の筋。建物の壁や橋の下を走っていた、あの流れ。あれがみんな、ここにつながっているのだとしたら、この屋敷は本当に都の中心なんだと思えた。

「行くぞ」

白嶺が言う。

その声で、私ははっとする。
紬も小さく頷いて、庭に沿うように続く別の回廊へ入っていった。

今度の回廊はさっきまでより少し暗く、灯りも控えめだった。壁際に置かれた灯籠の内側で青白い光が静かに揺れていて、その明かりが床に細長く落ちている。足音がさっきよりもよく響く気がした。

やがて、紬がひとつの襖の前で足を止めた。

今まで通ってきた部屋より、明らかに大きい。襖の表面には淡い金の文様が流れるように描かれていて、何かの絵なのか模様なのか、私にはよくわからない。でも、ただの飾りじゃない気がした。見ていると、少しだけ目が離しにくい。

紬はそこで静かに振り返る。

「この先に、雲仙様がいる」

わかっていたはずなのに、その一言で胸がどくんと鳴った。

椿が私の横に並ぶ。
白嶺は紬の少し後ろに立ったまま、私を見た。

「ここまで来たら、あとは君次第だ」

白嶺の言い方はやっぱり少し冷たく聞こえる。
でも、前よりはその意味がわかる気がした。無理に引っ張るつもりはないけれど、逃げ道がないことも隠さない。そういう人なんだと思う。

椿が小さく鼻を鳴らす。

「白嶺、そういう言い方」

「間違ったことは言っていない」

「そういう話じゃないんだよ」

紬が二人を見て、少し困ったみたいに笑った。

「……二人とも、今それやる?」

その一言で、少しだけ張りつめていた空気がゆるむ。

私はぎゅっと手を握った。

知りたい。
帰りたい。
怖い。

そのどれも嘘じゃない。
たぶん、全部を抱えたまま会いに行くしかないのだ。

「……入る」

小さく言うと、白嶺がほんのわずかに目を細めた。
椿は「よし」とでも言いたげに口元を上げる。
紬は静かに頷いた。

「では、お通しするね」

そう言って、襖の前に進む。

その所作はさっきまでよりずっと丁寧で、紬もまた、この屋敷の中ではちゃんと役目を背負っているのだとわかった。

襖に手がかかる。

私は息を止めた。

ゆっくりと、音もなく、襖が左右に開いていく。
その向こうから、ひんやりと澄んだ空気が流れてきた。香の匂いが、さっきまでよりも少し濃い。広い部屋の奥まではすぐに見えなかったけれど、青白い灯りの中に、ひとつだけ静かな影があるのがわかった。

その瞬間、都の賑わいも、長い回廊も、全部遠くなった気がした。

私は無意識に背筋を伸ばす。

ここにいる。
雲仙様が。

襖の向こうは、思っていたよりもずっと静かな部屋だった。

広い。

けれど、広さより先に、空気の違いがわかった。
ひんやりしているのに冷たくはなくて、水の底みたいに澄んでいる。部屋の奥には青白い灯りが淡く落ちていて、その中心に、ひとりの人影があった。

最初は、ただ静かな人だと思った。

派手な格好をしているわけでもない。
大きく手を広げているわけでも、こちらを睨んでいるわけでもない。
なのに、その人がそこにいるだけで、部屋の空気が全部その人を中心にまとまっているように感じた。

目が離せなかった。

怖い、とは少し違う。
けれど、勝手に息を潜めたくなるような、そんな圧があった。

その人が、ゆっくりとこちらを見る。

「……よく参ったの、燈」

声は穏やかだった。

大きくもないし、厳しくもない。
それなのに、不思議なくらいはっきり耳に届く。部屋のすみずみまで静かに広がって、そこでようやく、私はこの人が雲仙様なんだと実感した。

「まずは面を上げよ。そこまでこわばっていては、話も聞き取りづらかろう」

言われて、私は自分が思った以上に肩を強ばらせていたことに気づいた。
慌てて息を吸う。けれど、どうしたらいいのかわからない。

白嶺と椿、それに紬は、部屋へ入るとすぐに姿勢を正していた。三人ともさっきまでよりずっと静かで、特に白嶺は表情まで少し引き締まって見える。椿ですら軽口を叩く気配がない。

私だけが、この部屋の中で場違いみたいだった。

「……失礼します」

やっとのことでそう言って、私はぎこちなく頭を下げた。

雲仙様は、そんな私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。笑った、というほどはっきりした変化ではなかったけれど、不思議とその一瞬で胸の奥の緊張が少しだけほどけた。

「よい。急に連れて来られ、知らぬものばかり見せられ、戸惑うなという方が無理であろう」

その言葉は責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ当たり前のこととして置かれた。
私はそれだけで、胸の奥にひっかかっていたものが少し落ちる気がした。

雲仙様は、部屋の中央より少し奥、低く設えられた席に座っていた。姿勢はゆるやかなのに、だらしなさは少しもない。長い髪は夜の色に近いのに、灯りを受けると水面みたいにやわらかく光って見えた。衣も落ち着いた色合いなのに、袖口や裾に走る文様だけが淡く霊力を帯びているみたいだった。

ぬらりひょんの分霊。
妖怪たちの中心。
この妖魔界の生みの親みたいな存在。

そういう言葉を頭では知っていても、目の前の人はあまりにも静かで、かえって現実味が薄かった。
でも、静かなのに軽くはない。そこにいるだけで、都の重みごとこの部屋へ集まっているような感じがした。

「白嶺、椿、紬。ご苦労であった」

雲仙様がそう言うと、三人はそれぞれ小さく頭を下げた。

「無事にお連れしました」

白嶺が答える。
いつもよりさらに簡潔で、余計な言葉がなかった。

「途中、少々面倒はあったけどね」

椿が言う。
それでも普段みたいな気軽さは抑えられていて、この人なりにちゃんと場をわきまえているのがわかった。

「燈ちゃんも、無理はしていません」

紬が続ける。
その言い方が少しだけ私を気遣っているのがわかって、私は思わずそちらを見た。紬は私と目が合うと、小さく頷いてみせた。

雲仙様は三人の言葉を静かに聞き、それからもう一度、私を見た。

「さて」

その一言で、部屋の空気が少し変わった気がした。

「燈よ。そなたは今、知りたいことが山ほどあろう」

私は黙ったまま、こくりと頷く。

知りたい。
どうして私がここにいるのか。
どうしてあの黒いものに襲われたのか。
どうして白嶺と椿が私を助けたのか。
どうして、自分の中からあんな熱が出たのか。

そして、帰れるのかどうか。

聞きたいことはたくさんあるはずなのに、いざ「話してよい」と言われると、何から口にしていいのかわからなくなる。喉の奥が詰まって、声が出ない。

雲仙様は急かさなかった。
ただ待っていた。

その静かな待ち方に押されるように、私はようやく声を絞り出す。

「……どうして」

自分の声が、部屋の中でやけに小さく聞こえた。

「どうして、私は襲われたんですか」

言った瞬間、胸がどくんと強く鳴った。
本当はもっと聞きたいことがあったのに、最初に出てきたのはそれだった。

雲仙様は少しも驚いた様子を見せず、静かに頷いた。

「そう問うであろうと思っておった」

そして、ゆっくりと息をつく。

「その答えを語るには、少々、昔の話から始めねばならぬ」

私は黙って雲仙様を見つめた。

白嶺も椿も、紬も口を挟まない。
誰もが、この先の言葉を待っているみたいだった。

「昔――人と物怪は、今よりずっと近しいところにおった」

雲仙様の声は変わらず穏やかだった。
けれど、その一言が落ちた瞬間、部屋の静けさがさらに深くなった気がした。

私は思わず、背筋を伸ばした。

今から聞く話は、ただの昔話じゃない。
きっとこの世界そのものの話なのだと、もうわかっていた。

「人は我らを畏れ、その畏れは祈りとなり、やがて信仰となった」

雲仙様の声は、少しも強くない。
けれど、その言葉はまっすぐ胸の奥に落ちてきた。

「今よりもずっと昔、人と物怪は互いの姿を近くに見ておった。人は山や川を畏れ、夜の闇を畏れ、己が知らぬものを畏れた。そこには名のある神も、名もなき妖も、等しくおったのだ」

私は黙って聞いていた。

難しい話のはずなのに、雲仙様の言葉は不思議とするすると耳に入ってくる。
まるで遠い昔の景色を、そのまま見せられているみたいだった。

「畏れとは、ただの恐怖ではない。人が己より大きなものの存在を認める心でもある。ゆえに、畏れは祈りに変わる。祈りはやがて信仰となる。我らは、その信仰によって霊を得て、形を保っておった」

形を保つ。

その言葉が引っかかった。

「じゃあ……妖怪は、人が信じてくれることで、ここにいられたってことですか」

恐る恐る聞くと、雲仙様はゆっくり頷いた。

「そう考えてよい。もちろん、それだけで語り尽くせるほど単純ではない。されど、人の抱く畏れと信仰が、我らの在りようを支えていたのは確かだ」

私は小さく息を呑む。

それは、少し不思議な話だった。
妖怪は人を襲ったり、怖がらせたりするものだと思っていたのに、その人間の心で妖怪が存在していたなんて。

でも、言われてみれば、わからないでもなかった。
人が本当に何も信じなくなったら、昔話の中のものはみんなただのお話になってしまう。

「ところが」

雲仙様の声が、ほんの少しだけ低くなった。

「人の世は変わった。人は火を操り、道具を発達させ、理を知り、やがて多くのものを“説明できる”ようになった」

白嶺も椿も、何も言わない。
紬だけが、少し視線を伏せた。

「それ自体が悪いのではない。人が知恵を得るのは自然なことよ。されど、理で測れるものばかりを真とし、測れぬものを退けるようになってから、人は次第に我らを畏れなくなった」

雲仙様は、静かな目で私を見ている。

「畏れられぬものは、祈られぬ。祈られぬものは、信じられぬ。信じられぬものは、霊を失う」

その言葉はやさしいのに、どこか冷たかった。
雪が降り積もるみたいに、しんと部屋の中に落ちていく。

「ゆえに、多くの妖は弱った。姿を保てぬもの、正気を失うもの、名だけを残して消えるもの……人の世が進むほど、我らは少しずつ削られていった」

「……だから、妖魔界を作ったの」

気づけば、私はそう聞いていた。

雲仙様は、また頷いた。

「そうだ」

その一言は、思ったよりもずっと重かった。

「人の世と我らの世を分かち、境を張り、妖のみが生き延びる場として繋ぎとめた。それが、今そなたが立っている妖魔界だ」

私は無意識に、畳の上の自分の手を見た。

ここはもともとあった世界じゃない。
妖怪たちが消えないために、雲仙様が作った世界。

そのことが急に現実味を持って押し寄せてきて、胸の奥がざわついた。

「けれど、それですべてが救われたわけではない」

雲仙様は静かに続ける。

「妖魔界があろうとも、我らの根が人の世にあったことは変わらぬ。信仰の絶えた今、この世だけで我らすべてを養うのは難しい。ゆえに我は、己が霊を分け与え、この都と妖たちを繋ぎとめてきた」

その言葉に、私ははっとして顔を上げた。

「自分の、霊力を……?」

「うむ」

穏やかに答える雲仙様の横顔は、少しも苦しそうには見えなかった。
けれど、その静けさがかえって苦しかった。

「無限ではない。されど、そうせねば多くのものが消える。ゆえにそうしてきた。ただ、それも年々厳しくなっておる」

部屋の空気が少しだけ重くなる。

椿がわずかに眉を寄せ、白嶺は何も言わずに目を伏せた。
紬の尻尾の先が、小さく揺れたのが見えた。

私は胸の奥がぎゅっとするのを感じた。

雲仙様は、ただ偉い人じゃない。
この世界そのものを支えている。
都に流れていた青白い光も、あの大きな屋敷も、ここで生きている妖怪たちも、その全部の奥に、この人の力がある。

そう思った瞬間、急に怖くなった。
もし雲仙様の力がなくなったら、どうなるんだろう。

「では、なぜそなたが襲われたか」

雲仙様の声で、私ははっと我に返る。

いちばん聞きたかったことだった。
なのに、ここまでの話が大きすぎて、少しだけ忘れそうになっていた。

「下生の妖どもは、常に飢えておる」

雲仙様はまっすぐ私を見た。

「名も力も弱いものほど、自ら霊を得るすべが乏しい。ゆえに、流れてきた霊や、こぼれた力に群がる」

あの黒い影が頭に浮かぶ。
顔のない、泥みたいなもの。
あれが“飢えている”と言われた瞬間、昨日感じた気味の悪さが、別の形で胸に刺さった。

「そなたの身には、豊かな霊が宿っておる」

私は息を止めた。

「血に、肉に、魂に。いまだ目覚めきっておらぬとはいえ、そなたの内には、下生の妖どもには耐え難いほどの霊が満ちている」

血に、肉に、魂に。

その言い方が怖かった。
まるで私は、自分でも知らない何かを体の中にずっと抱えて生きていたみたいだったから。

「だから……襲われたんですか」

自分の声が少し震えているのがわかった。

「食べられ、そうになったの……?」

その問いに、雲仙様はすぐには答えなかった。

否定されると思っていた。
でも、沈黙があったせいで、かえって喉が苦しくなる。

「そう考えてよい」

やがて返ってきたのは、静かな肯定だった。

「そなたそのものを喰ろうたのではない。そなたのうちにある霊に引かれたのだ。飢えたものが、目の前に差し出された灯を奪おうとするようにな」

私は何も言えなかった。

昨日のことが、今さらみたいにはっきり怖くなる。
もし白嶺と椿がいなかったら。
もしあの場で、あの黒いものに捕まっていたら。

考えたくないのに、頭の中に嫌な想像ばかり浮かぶ。

「じゃあ……私、ここにいるだけで危ないの?」

ようやくそれだけ聞くと、雲仙様は私を見たまま答えた。

「危ういのは事実だ」

白嶺がわずかに顔を上げた。
椿も、ほんの少しだけ表情を硬くする。

「されど、危ういからといって、そなたが悪いのではない」

雲仙様の声は変わらず穏やかだった。

「そなたはただ、ここへ来てしもうた。それだけのこと。罪を負うべきは、飢えを生んだこの世の歪みであり、力及ばずそれを正しきれぬ我らの側よ」

その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥に溜まっていた息をようやく吐いた。

ずっと、自分のせいなんじゃないかと思っていた。
私が来たから。
私が変だから。
私の中にあるもののせいで、何かをおかしくしてしまったんじゃないかって。

でも、雲仙様はそれを違うと言った。

それだけで、胸の中のぐちゃぐちゃが少しだけほどける。

「そなたの力は、災いにもなりうる。されど、救いにもなりうる」

雲仙様は静かに言う。

「ゆえに、我はそなたのことを知りたい。そして、そなた自身にも、自らの内にあるものを知ってもらわねばならぬ」

私は黙って雲仙様を見た。

怖い。
でも、さっきまでと少しだけ違っていた。

何も知らないまま怖がっていたのが、今は“何が怖いのか”が少しだけ見えた気がする。
それは余計に重いことでもあったけれど、逃げるだけじゃいけない気もした。

「……私、帰れますか」

気づいたら、そう聞いていた。

いちばん大事なことだった。
お母さんのところへ、お父さんのところへ、祖父母の家へ。
帰りたい。その気持ちは消えていない。

雲仙様は、静かに私を見つめた。

「帰すための道は、探ろう」

その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。

「ただし、その前に、そなた自身のことを知らねばならぬ。知らぬまま人の世へ戻せば、同じことがまた起こるやもしれぬ」

私はゆっくり頷いた。

簡単に「帰れる」と言われなかったのに、不思議とその答えは嫌じゃなかった。
ごまかされなかったからかもしれない。

「燈よ」

雲仙様が私の名を呼ぶ。

私は顔を上げた。

「そなたは今、己の内にあるものを恐れておるだろう」

私は少し迷ってから、小さく頷いた。

「怖い、です」

正直に言うと、雲仙様は目を細めた。

「それでよい」

思ってもみない返事だった。

「怖れを知る者は、力に呑まれにくい。己を無敵と信じる者ほど、力に喰われるものよ」

その言葉は、やさしいのに、不思議と力があった。

私は膝の上で握っていた手を、少しだけゆるめる。

部屋の中はまだ静かだった。
でも、最初に入ってきたときの息苦しさは、少しだけ薄れていた。

雲仙様は、そんな私を見て、ゆっくりと続けた。

「さて――まずは、そなたの身に宿る霊について話そうかの」